こんにちは!能初心者かぜぱです!
以前兵庫県のホールで野村万作さんと萬斎さんの狂言を観たのがきっかけで、国立能楽堂で能を観てみたいと思い、大阪からはるばる東京の千駄ヶ谷までやってきました。
鑑賞したのは月4回程度行われている公演のうちの一つ、定例公演の狂言「成上り」と、能「海人」。
チケットは3000円〜5000円。今回は初めてということでちゃんと正面から見るために5000円の席を購入しました。

主役の人が能面をつける、台詞が歌っぽいという前情報しかない状態で、初めて能を鑑賞したら今まで感じたことのない不思議な感覚を味わったのでシェアさせていただきます。
いよぉぉ〜ッ…ポンッ!!
歌舞劇ならではの台詞まわし
能は歌舞劇と言われているようで、台詞一言一言に音階のような抑揚がありました。
ちなみに演者だけではなく上手側に地謡(じうたい)と呼ばれるコーラスを担当する人たちが8人いて、その人たちも場面に合わせて語り部のような台詞を声を合わせて歌います。
実際に言葉を話しているリアルさというよりかは言葉で事実を、声で雰囲気を表現しているような印象を受けました。
台詞が歌になっているミュージカルとはまた違い、決して分かりやすくもないし、何を言っているのかが耳だけでは分からない。
でも座席の前に小さなモニターがあってそこにあらすじが舞台の進行とリンクして表示されていくので、ストーリーが分からなくなるということはありません。
でもストーリーは後でプログラムを読み返せば分かると思い、なるべくモニターを見ずに役者の演技をよく見て感情や流れを理解してみようというチャレンジをしてみました。
結果は…
激ムズでした
理由は…
表情がない?
私が見る限り、能の役者さんは終始全く表情を変えることなく淡々と台詞を歌い上げていました。
悲しい場面だとしても表情は変わらない。
でも声の感じは少し暗いような雰囲気を感じさせます。
そもそもシテと呼ばれる主役を担う人はお面をつけており、表情は見えません。
それもあって今どういう状況なのかという理解に確信が持てないまま演目が進んでいきます。
感情を知る手段は声色と台詞しかないのか…?と思っていましたがどうやら違ったようです。
無駄を削ぎ落とした様式美だった
鑑賞していて一つ気になった仕草がありました。
それは能面をつけた海人が泣く場面があったのですが、着物の袖で涙を拭く仕草をした時に眉より上のおでこあたりに手を当てて涙を拭っているような仕草として成り立っていたことです。
なんで目元を拭わないんだろう?と疑問に思い、後々気になって調べたらそれは「シオリ」という型で、悲しみを表す型の一つだそうです。
さらに調べていくと、「オモクラス」という顔を少し下を向くようにして悲しみなどを表現する型もあることが分かり、そういった表現の型が数多くあることが分かりました。
つまり、「表情がない」のではなくその感情を表現する「型がある」
これらの型が連なって演技が構成されていたものが「能」だったのです。
美術館にいるような感覚
モニターや事前にあらすじを見ていたとしても、今舞台で進んでいる事象に確信が持てない。
ストーリーを重視して鑑賞していたらだいたいの人は話はそんなに複雑ではないのに「難しい…」となると思います。
能の面白さは、ドラマやミュージカルのように登場人物に共感することで感情を共有することではなくて、針の穴に糸を通すような細やかな洗練された様式美を味わうところにあるのではないかと初心者ながらに思いました。
例えていうなら美術館。
より近くで、細かい部分に注目したり引きで見てみたり、それが美しいと言われる理由を知りに行くような感覚。
なので楽しませてもらおうという受け身の気持ちで能を観に行くとよく分からないまま公演が終わってしまうかもしれません。
まとめ
敷居が高いと勝手に思っていた能。
やはり意を決して行ってみて良かったです。
初めて観た能は、私にとって「人に与える」芸術・エンターテインメントではなく「人を惹きつける」ものでした。
楽しませてもらうのではなく、知りに行く。
「どうぞ」というよりは「おいで」と言われているような感覚になりました。
この美しいと言われているものがなぜ美しいと言われているのか、もっと知りたい。
目を養うことへの欲求をくすぐられる伝統芸能でした。
もっと型を知ってからぜひまた観にいきたいです。
では!