日本史の授業で聞いたことがある方は多いのではないでしょうか?
風姿花伝は、日本の伝統芸能である能を大成した観阿弥の教えを、息子の世阿弥が書き記したものです。
芸能は良し悪しが数字で表すことができず、個々の感性や好みによる部分が大きいので、何が上手で下手なのか基準がなく難しいものです。
しかし観阿弥、世阿弥は細かい芸による技術の良し悪しではなく、見る人にこう思わせられる人が上手。というように見る側を基準に客観的に記述しています。
あの人のパフォーマンスが良いと思う理由は何なのか?何をもって良いと思ったのか?その答えが風姿花伝にはあります。
芸能とは?
芸能とは人の心を和ませて感動を与える幸福の根本。つまりは寿命をのばす方法となる。究めつくせば世の全ての道はこの幸福と長寿という目的にたどり着く。
少しわかりやすく言葉を崩して掲載しましたが、要は幸せになれるし寿命のびるよ。ということです。
芸能が生活に必須か?と言われたら、必須ではないかもしれません。
しかし、たしなむことでより人生が豊かになるもの。それが芸能です。
上手と下手
ここでは
上手…演者で上手いとされているの人
下手…演者でまだ未熟な人
目利き…能の上手下手が分かる人
目利かず…能の上手下手が分からない人
の4種類の芸能に関わる人が登場します。
それらをふまえて本の中の記述を抜粋すると
「上手の芸が目利きかずの心を満足させることは難しいが、それを満足させられる演者は上手のなかでもさらに工夫のある演者」
「下手は目利きの眼に合うことはない」
「能に技巧をこらすのは下手のわざ」
と書いてありました。
そして「愚かな眼にもなるほどと映るような能をすることがすなわち福となる」と締めくくっています。
玄人(目利き、上手)の間では評価されるのに素人(下手、目利かず)には評価されない演者。
素人には評価されるが、玄人には評価されない演者。
本当に上手な演者は目利きだろうが目利かずだろうが、あっといわせるものを持っているということですね。
強いと荒い、弱いと幽玄
能では物真似がとても大切だそうです。
本来弱くあるべきものを強く演じることを、荒い
本来強いものを幽玄に見せようとすることを、弱い
そしてただ幽玄になることだけを目指し、物真似が疎かになれば似ない。そういう心が弱い。
昨年まだエンターテイナーとして働いていた時にこの文章をみて、今まで感覚的にやっていたことの答えを見つけたと思いました。
「上っ面で薄っぺらいパフォーマンスだ」という表現が働いている時にあったのですが、まさにこのことでした。
ただ良く見せよう。見せたい。良いと思われたいという思いが先行してしまうと、肝心の物真似や世界観の表現が甘くなるんですね。
「花がある」ということ
よく目を引いたり、場を明るくする人に対する表現として「華がある」といったりします。
本では華を「花」で表現していたので私も「花」を使いますが、花に関する記述をまとめると…
珍しさを心得るが花。花は心、種は技
見ている人にとってそれが花だと分からないからこそ演者の花となる
人の心に思いもよらぬ感動を呼び起こす手立て。これが花
秘すれば花、秘せずは花なるべからず
珍しさに関する説明は次の章でします。
なんか、なにか分からないんだけど…他の演者と比べてこの人すごい。と思ったならその「なにか」はその演者の花ということです。
「珍しさ」について
どのようにしても、能には良い時があれば必ずまた悪い時もある。
珍しさとは、さほど重要ではないところでは少な少なと能をして観客がどうしたと興ざめているところで手立てを変え、十八番を精一杯力を入れてやってみせること。
同じ演者の能を2日続けて見たとすると、昨日は面白かったが今日はなぜか面白くないから良くないと感じる。その次に見たら面白くて良く感じる。これを珍しさの反転という。
今で言うギャップとか緩急に近いでしょうか。
終始力一杯演じてもかえって平坦に見えてしまったりするので、一番見せたいところの手前で少し落としてより見せ場を際立たせたり。
パフォーマンスに波は必ずあるから、それを理解して生かして演じろということだと解釈しました。
まとめ
目利きとなって芸能を理解するのは難しいですが、こういうことができる人が上手なんだ、この人の花はなんだろうと他の演者と見比べながら見てみたり、目利きかずでも芸能の見所を探せる、探し方を教えてくれる本でした
芸能の良さが分からないといって観るのを避けていたなら、これを機に芸能に触れてみると、上手の演者の珍しさで面白いと思えるかもしれませんね。